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ウィリアム・シェイクスピアWilliam Shakespeare、沙翁(沙吉比亜からの異称)、1564年4月26日(洗礼日) - 1616年4月23日(グレゴリオ暦5月3日))は、イギリスイングランド)の劇作家詩人ストラトフォード・アポン・エイヴォンの生れ。エリザベス朝演劇の代表的な作家で、最も優れた英文学の作家とも言われている。その卓越した人間観察眼と内面の心理描写は、今日でも最高度の文学レベルをなしている。

1585年前後にロンドンに出たといわれ、1592年には新進の劇作家として活躍。1612年ごろに引退するまでの約20年間に四大悲劇『ハムレット』、『マクベス』、『オセロ』、『リア王』をはじめ、『ロミオとジュリエット』、『ヴェニスの商人』、『夏の夜の夢』、『ジュリアス・シーザー』など多くの傑作を残した。『ヴィーナスとアドーニス』のような物語詩もあり、特に『ソネット集』は今日でも最高の詩編の一つと見なされている。

生涯 編集

本節ではシェイクスピアの個人史について記述する。執筆歴や作風の変遷については次節を参照。

前半生 編集

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ウィリアム・シェイクスピアは1564年イングランドストラトフォード・アポン・エイヴォンに生れた。父ジョン・シェイクスピアはスニッターフィールド出身の成功した皮手袋商人で、町長に選ばれたこともある市会議員であった。母メアリ・アーデンはジェントルマンの娘であり、非常に裕福な家庭環境であった。2人は1557年ごろに結婚し、ヘンリー・ストリートに居を構えていた。ウィリアムの正確な誕生日は不明であるが、1564年4月26日に洗礼を受けたことが記録されている。エリザベス朝時代には出生証明書が発行されていなかったので、これがシェイクスピアに関する最古の公的記録となる。洗礼式は生誕後3日以内に行なうのが当時の通例であったため、伝統的に誕生日は4月23日とされてきたが、直接これを示す歴史的な証拠にもとづいているわけではない。この日は聖人暦においてイングランドの守護聖人である聖ゲオルギウスを祀るサン・ジョルディの日にあたるため、イングランドの最も偉大な劇作家にふさわしい日であることや、シェイクスピアは1616年の4月23日(グレゴリオ暦では5月3日)に没しているため、誕生日も4月23日であったとすると対称になることなどがこの推定を支持している[1]

シェイクスピアの両親には全部で8人の子供がいた。ジョン(1558年)、マーガレット(1562年 - 1563年)、ウィリアム、ギルバート(1566年 - 1612年)、ジョーン(1569年 - 1646年)、アン(1571年 - 1579年)、リチャード(1574年 - 1613年)、エドモンド(1580年 - 1607年)である[2]

シェイクスピアの父はウィリアムの生まれたころには裕福であったが、羊毛の闇市場に関わった咎で起訴され、市長職を失った。いくつかの証拠から、父方、母方の両家ともローマ・カトリックの信者であった可能性が推測されている。

シェイクスピアはストラトフォードの中心にあったグラマー・スクール、エドワード6世校 (King Edward VI School Stratford-upon-Avon) に通ったであろうと推定されている[3]。 校名に冠されているエドワード6世と学校の設立の起源になんら関係はなく、創設に関与したのはローマ・カトリックであり、エドワード6世の時代を大きく遡る15世紀初頭に開校されている[3]。 エリザベス朝時代のグラマー・スクールは学校ごとに教育水準の高低差はあったが、この学校はラテン語文法や文学について集中学習が行なわれていた。講義の一環として学生たちはラテン演劇の洗礼を受ける。実際に演じてみることでラテン語の習熟に役立てるためである[3]。 シェイクスピアの最初期の戯曲『間違いの喜劇』にプラウトゥスの戯曲『メナエクムス兄弟』 ("The Two Menaechmuses") との類似性があることも、シェイクスピアがこの学校で学んだと推測される[4]根拠の一つである。1482年にカトリックの司祭によってこの学校がストラトフォードに寄贈されて以来、地元の男子は無料で入学できたこと、父親が町の名士であったためそれなりの教育は受けていただろうと考えられることなどがその他の根拠である。家庭が没落してきたため中退したという説もあるが、そもそもこの学校の学籍簿は散逸してしまったため、シェイクスピアが在籍したという確たる証拠はなく、進学してそれ以上の高等教育を受けたかどうかも不明である[3]

1582年11月29日、18歳のシェイクスピアは26歳の女性アン・ハサウェイ (Anne Hathaway) と結婚した。ある公文書において彼女はストラトフォードにも近い「テンプル・グラフトンの人」と誤記されている(実際にはショッタリー出身)ので、結婚式がそこで行なわれた可能性が高い。ハサウェイ家の隣人であるフルク・サンダルズとジョン・リチャードソンが、結婚には何の障害もなかったという保証書を書いている。このときすでにアンは妊娠3ヶ月だったため、式次第を急ぐ必要があった模様である。

1583年5月26日、ストラトフォードで長女スザンナの洗礼式が執り行なわれた。1585年には長男ハムネットと、次女ジュディスの双子が生れ、2月2日に洗礼が施された。2人の名はシェイクスピアの友人のパン屋、ハムネット・セドラーとその妻ジュディスにちなんで付けられた。ハムネットは1596年に夭折し、8月11日に葬儀が行なわれた。

結婚後、ロンドンの劇壇に名を現わすまでの数年間に関するその他の記録はほとんど現存していない。双子が生まれた1585年からロバート・グリーンによる言及のある1592年(後述)までの7年間は、どこで何をしていたのか、なぜストラトフォードからロンドンへ移ったのかなどといった行状が一切不明となっているため、「失われた年月」 (The Lost Years) と呼ばれる[5]。 この間の事情については、「鹿泥棒をして故郷を追われた」「田舎の教師をしていた」「ロンドンの劇場主の所有する馬の世話をしていた」など、いくつかの伝説が残っているがいずれも証拠はなく、シェイクスピアの死後に広まった噂である[6]

シェイクスピアがランカシャーで教職についていたという説は、1985年にE・A・J・ホニグマンによって提唱されたもので、ホートン家の人物が記した遺言書にもとづいている。この中に戯曲や舞台衣装についての言及と、「現在同居しているウィリアム・シェイクシャフト (William Shakeshaft) 」の面倒を見てやってほしいという親族への要請があり、このシェイクシャフトなる人物こそシェイクスピアのことではないかというものである[6]。 ストラトフォード出身のシェイクスピアとランカシャーのホートン家を結びつけるのは、かつてシェイクスピアの教師であったジョン・コットンである。ランカシャーの生まれでホートン家の隣人であったコットンがシェイクスピアを教師として推薦したとホニグマンは主張している[6][7]。 マイケル・ウッドは、約20年後にシェイクスピアのグローブ座株式の受託者となるトマス・サヴェッジがその遺言書の中で言及されている隣人と結婚していることから、何らかの関係をもっていたであろうことをつけ加えているが、シェイクシャフトという姓は当時のランカシャーではありふれたものであったとも述べている[8]

ロンドンの劇壇進出 編集

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1592年ごろまでにシェイクスピアはロンドンへ進出し、演劇の世界に身を置くようになっていた。当時は、エリザベス朝演劇の興隆に伴って、劇場や劇団が次々と設立されている最中であった。その中で、シェイクスピアは俳優として活動するかたわら次第に脚本を書くようになる。1592年にはロバート・グリーンが著書『三文の知恵』 ("Greene's Groatsworth of Wit") において、「役者の皮を被ってはいるが心は虎も同然の、我々の羽毛で着飾った成り上がりのカラスが近ごろ現われ、諸君の中でも最良の書き手と同じくらい優れたブランク・ヴァースを自分も紡ぎうると慢心している。たかが何でも屋の分際で、自分こそが国内で唯一の舞台を揺るがす者 (Shake-scene) であると自惚れている」と書いており、他の作家から中傷されるほどの名声をこのときにはすでにかちえていたことが知られている(グリーンはシェイクスピアを名指しで批判しているわけではないが、下線部が『ヘンリー六世 第3部』第1幕第4場のヨーク公のセリフ “O tiger's heart wrapt in a woman's hide!”(「女の皮を被っていても、心は虎も同然だ!」)をもじって引用していることや、「舞台を揺るがす者」 ("Shake-scene") がいかにもシェイクスピアを連想させる名であることから、シェイクスピアに対する非難であることはおよそ間違いないとされる)。

1594年の終わりごろ、シェイクスピアは俳優兼劇作家であると同時に、宮内大臣一座として知られる劇団の共同所有者ともなっており、同劇団の本拠地でもあった劇場グローブ座の共同株主にもなった。当時の他の劇団と同様、一座の名称はスポンサーであった貴族の名前から取られており、この劇団の場合には宮内大臣がパトロンとなっていた。1603年エリザベス1世が死去してジェームズ1世が即位したさい、この新国王が自ら庇護者となることを約束したため国王一座へと改称することになるほど、シェイクスピアの劇団の人気は高まっていた。シェイクスピアの著作からは、作中に登場するフレーズや語彙、演技についての言及に鑑みても、実際に俳優であったことが見て取れるが、その一方で劇作法についての専門的な方法論を欠いている[9]

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高等教育を欠いてはいたものの、シェイクスピアは長らくジェントルマンの地位を求めていた。まだ裕福であったころシェイクスピアの父は紋章を取得するために紋章院へ嘆願をしており、もし受理されればこの紋章は息子であるシェイクスピアが受け継ぐことになるものであった。俳優(当時はいかがわしい職業であった)のシェイクスピアには紋章を得る資格がなかったが、ストラトフォードの役人であり妻の生まれもよかった父ジョン・シェイクスピアは充分に資格を備えていた。しかし一家の財政が傾いていたためになかなか望みを叶えることができなかったのである。1596年に再び申請をはじめ、シェイクスピア家は紋章を手にすることができた。おそらくシェイクスピア自身が経済的に大きな成功を収めていたためである。紋章に記された銘は “Non sanz droict” (権利なからざるべし)であったが、これはおそらく銘を考案したシェイクスピアのある種の守勢や不安感を示している。社会的地位や名誉の回復といったテーマが彼の作品のプロットにおいて頻出するようになるが、シェイクスピアは自分の切望していたものを自嘲しているようである[10]

1596年にビショップスゲイトのセント・ヘレン教区へ転居。1598年にグローブ座で初演されたベン・ジョンソンの『十人十色』 ("Every Man in His Humour") では、出演者一覧の最上段にシェイクスピアの名前が記載されており、俳優としての活動も盛んであったことが見て取れる。また1598年ごろから、それまでは匿名のまま刊行されることが多かったシェイクスピアの四折判のタイトル・ページに著者名が記されるようになったが、シェイクスピアの名前がセールスポイントになるほどの人気を確立していた事が窺われる[11]

シェイクスピアは国王一座で上演する戯曲の多くを執筆したり、劇団の株式の共同所有者として経営に関与したりするかたわら、俳優業も継続して『ハムレット』の先王の幽霊や、『お気に召すまま』のアダム、『ヘンリー五世』のコーラスなどを演じたといわれる[12][13]

シェイクスピアは1599年内にテムズ川を渡ってサザックへ転居したと見られる。1604年には家主の娘の仲人をつとめた。この娘の結婚が原因で1612年に起きた裁判の記録にシェイクスピアの名前が登場する。この文書によると、1604年にシェイクスピアはユグノーの髪飾り職人クリストファー・マウントジョイの借家人となっていた。マウントジョイの見習いであったスティーヴン・ベロットがマウントジョイの娘との結婚を望み、持参金の委細について交渉してくれるようシェイクスピアに仲介を頼んだ。シェイクスピアの保証により2人は結ばれたが、8年たっても持参金が一部しか支払われなかったため、ベロットが義父に対して訴訟を起こしたのである。この裁判において証人としてシェイクスピアが召喚されたが、シェイクスピアは当時の状況に関してほとんど覚えていなかった。

法的問題や商取引についてのさまざまな公文書によると、ロンドン在住中にシェイクスピアは大きな経済的成功を収め、ロンドンのブラックフライヤーズの不動産や、ストラトフォードで2番目に大きな邸宅ニュー・プレイスを購入するまでになっていたことが分かる。

晩年 編集

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シェイクスピアは1613年に故郷ストラトフォードへ引退したと見られている[14]

シェイクスピアの生涯最後の数週間に起きた事件は、次女ジュディスに関わる醜聞であった。ジュディスの婚約者であった居酒屋経営者のトマス・クワイニーが地元の教会裁判所で「婚前交渉」の嫌疑で告発されたのである。マーガレット・ホイーラーという女性が私生児を産み、その父親がクワイニーであると主張してまもなく母子ともども死亡したのである。この一件でクワイニーの名誉は失墜し、シェイクスピアは自分の遺産のうちジュディスへ渡る分がクワイニーの不実な行為にさらされることのないよう遺言書を修正した。

1616年4月23日にシェイクスピアは52歳で没した。死因は腐りきったニシンから伝染した感染症であるらしいが、詳細は不明である。誕生日が4月23日であるという伝承が正しいならば、シェイクスピアの命日は誕生日と同じ日ということになる。シェイクスピアはアン・ハサウェイを生涯の妻とし、2人の娘、スザンナとジュディスを残した。息子のハムネットは1596年に夭折している。スザンナは医師のジョン・ホールと結婚し、2人の間に生まれた娘エリザベス・ホールがシェイクスピア家の最後の1人となった。今日、シェイクスピアの直系の子孫は存在しない。しかし、シェイクスピアが名付け親になったウィリアム・ダヴェナント(17世紀の詩人、劇作家。『マクベス』の改作などを執筆している)の実父がシェイクスピアではないかという噂が囁かれたことはある。

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シェイクスピアはストラトフォード・アポン・エイヴォンにあるホーリー・トリニティ教会の内陣に埋葬された。シェイクスピアが内陣に埋葬されるという栄誉を授けられたのは、劇作家としての名声によってではなく、440ポンドもの十分の一税を教会に納めていた高額納税者であったためである。シェイクスピアの墓所に最も近い壁の前に、おそらく家族によって設置されたと考えられる[15]シェイクスピアの記念碑には、シェイクスピアの執筆する姿をかたどった胸像が据えられている。毎年シェイクスピアの誕生日(とされる日)には、胸像の右手がもっている羽ペンが新しいものに取り替えられる。墓石に刻まれた墓碑銘はシェイクスピアみずからが書いたものと考えられている。

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シェイクスピアの未発表作品が副葬品として墓の中に眠っているという伝説があるが、確かめた者はいない。

没後7年を経た1623年、国王一座の同僚であったジョン・ヘミングスヘンリー・コンデルによってシェイクスピアの戯曲36編が集められ、最初の全集ファースト・フォリオが刊行された。

作品 編集

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シェイクスピアの戯曲の多くは、英語圏のみならず西洋文学全体の中でも最も優れたものと評価されている。1623年ジョン・ヘミングスヘンリー・コンデルによって編纂されたファースト・フォリオにおいて、これらの作品は悲劇・史劇・喜劇という3つのジャンルに分けられた。シェイクスピアの作品は、そのすべてが多くの国の言葉に翻訳され、各地で上演されている[16]

当時としては一般的なことであるが、シェイクスピアの戯曲は他の劇作家の作品に依拠しているものや、古い説話や歴史資料文献に手を加えたものが多い。例えば、おそらく『ハムレット』(1601年ごろ)は現存していない先行作品(『原ハムレット』と呼ばれる)を改作したものであることや、『リア王』が同じ題名の過去の作品を脚色したものであることなどが研究の結果明らかとなっている[17]。 また歴史上の出来事を題材としたシェイクスピアの戯曲は、古代ローマ古代ギリシアを舞台としたものと近世イングランドを舞台としたものの2種類に大別されるが、これらの作品を執筆するにあたり、シェイクスピアが資料として主に用いたテキストは2つある。前者の材源はプルタルコスの『英雄伝』(トマス・ノース (Thomas North) による1579年の英語訳[18])であり、後者が依拠しているのはラファエル・ホリンシェッドの『年代記』("The Chronicles of England, Scotland, and Ireland"1587年の第2版)である。『年代記』は史劇だけでなく『マクベス』や『リア王』の素材ともなっている[19]。 またシェイクスピアは同時代の劇作家(シェイクスピアと同年の生まれだが早くから才能を現していた)クリストファー・マーロウの文体を借用していると考えられることもある[20]。 シェイクスピアの作品の中でも、劇作法、テーマ、舞台設定などの点からみて最も独創的といえるのは『テンペスト』である[21]

シェイクスピアの戯曲のいくつかは四折判の単行本として刊行されているが、多くの作品はファースト・フォリオに収録されるまで未刊行のままであった。シェイクスピアの作品を悲劇・喜劇・史劇に分類する伝統的な区分は、このファースト・フォリオの構成に従ったものである。喜劇的な筋書きでありながらも倫理的な悩ましい問いかけを提示するような複雑な作品もいくつか存在するが、フレデリック・ボアズやW.W.ローレンス、E.M.W.ティリヤードといった近代の批評家は、これらの作品に「問題劇」ないし悲喜劇の用語を与えている。後期の喜劇作品に「ロマンス劇」の語が適用されることもある。

シェイクスピアの戯曲の正確な創作年代については多くの議論がある。またシェイクスピアが生前に自作の信頼できる版を刊行しなかったという事実により、シェイクスピア作品の多くがはらんでいるテキスト上の問題が起きている。すなわち、すべての作品の刊本の版ごとに、多かれ少なかれ原文に異同のある異本が存在しているのである(このため、シェイクスピアが実際に書いた部分と別人による改変を特定ないし推定する本文批評が現代の研究者や編者にとって大きな問題となる)。ベン・ジョンソンのような他の劇作家と異なり、シェイクスピアは自作の定本を刊行することに関心を払っていなかったと考えられる[22]。 こうした異本は、底本がシェイクスピアの自筆原稿であったか筆耕者の手を経た清書稿であったかにかかわらず、印刷業者のミスや植字工の誤読、原稿の読み違えで正しい順に詩行が配置されなかったことなどにより生じる[23]

一つの作品について極端に異なる二つのヴァージョンが存在する場合に問題は深刻になる。バッド・クォートと呼ばれる、ズタズタに切り刻まれた粗悪な刊本が数多く存在するが、これらはファースト・フォリオの編者が「盗用された海賊版」と非難しているものと考えられる[24]。それほど台無しにされたわけではない異本については、一概に無視できないものがある。例えば、『リア王』の四折判と二折判には大きな違いが見られる。伝統的に、編者は両方のヴァージョンからすべての場面を取り入れて融合することにしている。しかし、マドレーン・ドーラン(Madeleine Doran)以降、両方を別物とみなし、『リア王』という1つの戯曲に2つのヴァージョンの存在を認めるという動きもある。ゲイリー・テイラーとロジャー・ウォーレンは共著 "The Division of the Kingdom" において、『リア王』に見られるような異同は、1つのテキストが異なる形で刊行されたのではなく、テキスト自体が異なる形で2つ存在していたためだという説を提唱している[25]。 この仮説は一般に広く受け入れられてはいないが、その後数十年間の批評や編集の指針に影響を与えており、ケンブリッジ版とオックスフォード版の全集では、『リア王』の四折判と二折判のテキストが両方とも別個に収録されている。

作風 編集

シェイクスピアの演劇の作品は、時代によって大きく3つに分類することができる。

初期
ロマンティックで奔放な喜劇(『夏の夜の夢』など)。
中世イングランドの歴史を題材とする史劇(『ヘンリー六世 第1部』など)。なお、史劇作品群は「二つの四部作」という形式でグループ分けされるのが慣習となっており、第1・四部作は『ヘンリー六世』三部作と『リチャード三世』から、第2・四部作は『リチャード二世』、『ヘンリー四世』二部作、『ヘンリー五世』から構成される。これら8作を総合するとプランタジネット朝分裂から薔薇戦争終結までの二世紀に及ぶ歴史絵巻となる。
中期
複雑さ、円熟味を増した喜劇。『トロイラスとクレシダ』など、問題劇とも呼ばれる悲喜劇も含む。
裏切り、殺人、欲望、権力、野心といった問題を扱い、壮大なテーマに挑んだ悲劇。四大悲劇と呼ばれる代表作『オセロー』、『マクベス』、『ハムレット』、『リア王』など。
後期
ロマンス劇(『冬物語』や『テンペスト』など)。魔法などの空想的な要素を取り入れて救済にいたるプロットを特徴とする。

韻文と散文 編集

弱強五歩格という韻律を好んだ。『ウィンザーの陽気な女房たち』のように散文の比率が高い戯曲もある。

執筆歴 編集

シェイクスピアの劇作家としての活動は1592年頃から始まる。フィリップ・ヘンズロウの日記(当時の劇壇の事情を知る重要な資料として知られる)に『ヘンリー六世 第1部』と思われる戯曲が1592年3月から翌年1月にかけて15回上演されたという記録が残っているほか、同じく1592年にはロバート・グリーンの著書に新進劇作家シェイクスピアへの諷刺と思われる記述がある。これらが劇作家としてのシェイクスピアに関する最初の記録である。

最初期の史劇『ヘンリー六世』三部作(1590-92年)を皮切りに、『リチャード三世』『間違いの喜劇』『じゃじゃ馬ならし』『タイタス・アンドロニカス』などを発表し、当代随一の劇作家としての地歩を固める。これらの初期作品は、生硬な史劇と軽快な喜劇に分類される。

ペストの流行により劇場が一時閉鎖された時期には詩作にも手を染め、『ヴィーナスとアドーニス』(1593年)や『ルークリース陵辱』(1594年)などを刊行し、詩人としての天分も開花させた。1609年に刊行された『ソネット集』もこの時期に執筆されたと推定されている。1595年の悲劇『ロミオとジュリエット』以後、『夏の夜の夢』『ヴェニスの商人』『空騒ぎ』『お気に召すまま』『十二夜』といった喜劇を発表。これら中期の作品は円熟味を増し、『ヘンリー四世』二部作などの史劇には登場人物フォルスタッフを中心とした滑稽味が加わり、逆に喜劇作品においては諷刺や諧謔の色付けがなされるなど、作風は複眼的な独特のものとなっていく。

1599年に『ジュリアス・シーザー』を発表したが、この頃から次第に軽やかさが影をひそめていったのが後期作品の特色である。1600年代初頭の四大悲劇といわれる『ハムレット』『マクベス』『オセロ』『リア王』では、人間の実存的な葛藤を力強く描き出した。また、同じころに書いた『終わりよければ全てよし』『尺には尺を』などの作品は、喜劇作品でありながらも人間と社会との矛盾や人間心理の不可解さといった要素が加わり、悲劇にも劣らぬ重さや暗さをもつため、19世紀以降「問題劇」と呼ばれている。

アントニーとクレオパトラ』『アテネのタイモン』などののち、1610年前後から書くようになった晩期の作品は「ロマンス劇」と呼ばれる。『ペリクリーズ』『シンベリン』『冬物語』『テンペスト』の4作品がこれにあたり、登場人物たちの長い離別と再会といったプロットの他に、超現実的な劇作法が特徴である。長らく荒唐無稽な作品として軽視されていたが、20世紀以降再評価されるようになった。

書誌 編集

推定執筆年代は、リヴァサイド版全集による。

戯曲 編集

史劇 編集

悲劇 編集

喜劇 編集

Rはロマンス劇、Pは問題劇ともカテゴライズされる作品である。

詩作品 編集

外典と散逸した戯曲 編集

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評価 編集

英語で書かれた文学の中では最も美しいもののひとつとして、とりわけ英語圏では今日でも高い尊敬を集めている。シェイクスピア戯曲は、今もなお世界各地で数え切れないほど上演され続けている。また、世界各国の様々な映画監督によって度々映画化されている。

「生きるべきか死ぬべきかそれが問題だ」「ブルータス、お前もか」("Et tu, Brute!" とラテン語で書かれた)など名台詞として広く知られているものもある。

シェイクスピア別人説 編集

テンプレート:Rellink シェイクスピア自身に関する資料が少なく、手紙や日記、自筆原稿なども残っていない。また、法律や古典などの知識がなければ書けない作品であるが、学歴からみて不自然であることから、別人が使った筆名ではないかと主張する人や、「シェイクスピア」というのは一座の劇作家たちが使い回していた筆名ではないかと主張する者もいる。真の作者として推定された人物には哲学者フランシス・ベーコンや第17代オックスフォード伯エドワード・ド・ヴィア、同年生れの劇作家クリストファー・マーロウ、シェイクスピアの遠縁にあたる外交官ヘンリー・ネヴィルなどがいる。

もっとも英文学者でまともに別人説を取上げる人はほとんどいないようである。全戯曲を翻訳したシェイクスピア研究家の小田島雄志は、資料が残っていないのは他の人物も同様である、シェイクスピアは大学に行かずエリート意識がなかったから生き生きした作品が書けたのだ、と一蹴している。

語録 編集

  • 最悪と言っているうちは、まだ最悪ではない
  • 死ぬほどの哀しみも、別の哀しみで直る
  • 運命とは、最もふさわしい場所へと貴方の魂を運ぶのだ。
  • 君、時というものは、それぞれの人間によって、それぞれの速さで走るものなのだよ。

ハムレット

  • われらはいかにあるかを知るも、われらがいかになるかを知らず
  • 人間とはなんと造化の妙をきわめた驚くべき傑作なのだろう! でもその人間が、私にとっては、たかのしれた塵芥の精髄としか思われない
  • 喜怒哀楽のはげしさは、その感情とともに実力までも滅ぼす。歓びにふけるものは、悲しみにもふけるが習い。ともすれば、悲しみが喜びに、喜びが悲しみに
  • 弱き者よ、汝の名は女なり
  • 簡潔は知恵の精神、冗漫は手足や虚飾だ
  • 老人とは、子どもを二つ合わせたようなものだ
  • 待望とは、はかない影の影というべきうつろなものである
  • 志は記憶の奴隷にすぎない。勢いよく誕生するが、成長しにくい
  • 生きるべきか、死すべきか、それが問題だ
  • 誰の言葉にも耳をかせ。口は誰のためにも開くな。
  • 金を貸すと、金も友達もなくしてしまう。金を借りると、倹約の心が鈍ってしまう。
  • 青春はとかく己に謀反したがるもの、そばに誘惑する人がいなくとも
  • 世の中には幸も不幸もない。考え方でどうにもなるのだ。

マクベス

  • 楽しんでやる苦労は苦痛を癒すものだ
  • 罪から出た所行は、ただ罪によってのみ強力になる。
  • 消えろ、消えろ、つかの間の灯火、人生は歩いている影にすぎぬ
  • 自然でない行いは、自然でない混乱をうむ。病気になった心は、聞こえぬ枕に打ち明ける。
  • 人を邪道に引っ張り込むため、暗闇の手下共が真実を言うことがある。わずかのまことで引っ張り込んでおいて深刻な結果で裏切るために。
  • 運命をはねつけ、死を嘲り、野望のみいただき、知恵も恩恵も恐怖も忘れてしまう。お前達も知っているように、慢心は人間の最大の敵だ

プラトン

  • おお運命よ、運命よ、みなが汝を浮気者だという

『リチャード三世』

  • わしの知る慈悲とは!残忍鬼畜の振る舞いなのじゃ!人生はすべて屈辱じゃ!
  • 良心というやつは、人を臆病にしてしまうものだ。泥棒しようとすると、咎めやがる。罵倒・中傷してやろうと思うと叱りやがる。良心ってやつは、人の胸の中で謀反を起こす大変な寂しがり屋だ。

ヴェニスの商人

  • 憎い奴は、殺すそれが人間ってもんだろ。
  • 己の子どもを知るは賢い父親だ
  • 外観という者は、いちばんひどい偽りであるかも知れない。世間というものはいつも虚飾に欺かれる。
  • 針で刺せば血も出る、差別されれば恨みを抱く、違うか? 俺たちユダヤ人も人間なんだ!
  • 慈悲というものは、強制されるべき性質のものではない。慈悲が空から注いで、この大地を潤すように、まさにそうであるべきなのだ。

『お気に召すままに』

  • 全世界は舞台だ。そして、すべての男も女もその役者にすぎない。
  • 友愛の多くは見せかけ、恋情の多くは愚かさであるにすぎない
  • 男は言いよるときだけが春で、夫婦になってしまうと、もう冬だ。女は娘でいるうちは五月の花時のようだが、亭主持ちになると、忽ち空模様が変わる
  • 逆境が人に与えるものこそ美しい。それはガマガエルに似て醜く、毒を含んでこそおれ、その頭の中には宝石を蔵している

オセロ

  • 空気のように軽いものでも、嫉妬する者には聖書の本文ほど手堅い証拠になる
  • 立身出世なんてものは、手づる情実なんだから。慣例通り二番目が必ず一番目の後釜だと考えたら大間違いだ。
  • 貧乏でも満足している人間は金持ち、それとも非常な金持ちです。だが、大金持ちでも、いつ貧乏になるかとびくついている人間は、冬枯れのようなものです

『ジュリアス・シーザー』

  • ブルータス、お前もか
  • 謙譲は、にがい野心がその足場にする様子だ
  • 臆病者は、ほんとうに死ぬまでにいくたびも死ぬが、勇者は一度しか死を経験しない
  • 人間の行動にも潮時がある。満潮に乗じてことを行えば首尾よくはこぶ

『冬の夜ばなし』

  • 雄弁が役に立たないときにも、純な、無邪気な沈黙が、かえって相手を説得することがある。
  • 貧乏人けっこう。誰もお前のその貧乏を盗もうとはしないのだから

『しっぺ返し』

  • 美徳は決して怖れられぬ大胆さと強みだ。
  • 俺のものはお前のもの、お前のものは俺のもの

『ヘンリー』

  • 俺は名誉なんかほしくない。名誉は葬式の紋章にすぎない。(ヘンリー四世)
  • 快い眠りこそは自然が人間に与えてくれるやさしい、なつかしい看護婦だ。(ヘンリー四世)
  • 過去と来るべき未来はベストに思える。現在の事柄は最高に悪い(ヘンリー四世)
  • 無学は神の呪いであり、知識は天にいたる翼である(ヘンリー六世)
  • 招かれないのに来た客は、帰る時にいちばん歓迎される(ヘンリー六世)
  • 男は結婚式の日には泣こう(ヘンリー八世)

『アントニオとクレオパトラ』

  • 悲しみは慰めによって酬いられる
  • 最上の男よりも悪い夫はほかにいない
  • 女は万年新造のうえに手練手管が無尽蔵だから、いくら慣れっ子になっても珍しい

ロミオとジュリエット

  • こんな塀くらいかるい恋の翼で飛んでまいりました。
  • おお、ロミオ! なぜあなたはロミオなの?
  • 彼ら十人、二十人の剣よりも、お前の目に千人の人間を殺す力がある
  • 名前って何?バラと呼んでいる花を別の名前にしてみても美しい香りはそのまま

その他

  • 年老いやすし(『十二夜』)
  • いたずらをいたずらでやり返すほど痛快ないたずらはない。(『恋の骨折り損』)
  • 人生は不安定な航海だ(『アテネのティモン』)
  • 人間は習わし次第のものだ!(『ヴェローナの二紳士』)
  • 偉人には三種ある。生まれたときから偉大な人、努力して偉大になった人、偉大な人間になることを強いられた人(『断片』)
  • 愉しみが終わるや、たちまち侮辱の念を生じ、理も非もなく追い求むれど、思いをとぐれば、たちまち理も非もなく憎むにいたる(『ソネット』)
  • 愛は食べすぎるという事がない。欲情は食いしん坊で食べすぎて死んでしまう。愛には真実があふれているが、欲情はこねあげた虚妄に満ちている(『ヴィーナスとアドニス』)
  • 時はすべての佳き事の乳母であり、養い手である(『ヴェロナの二人の剣士』)
  • 正直なほど富める遺産はない。(『末よければすべてよし』)
  • 私がひとつの欲望を持つ限り、私は生きるひとつの理性を持つ。満足は死である(『圧迫された人々』)
  • 美しい妻を持っていることは地獄だ(『ウィンザーの陽気な女房』)
  • 老人が暴威を揮うのは実力があるためではなく、われわれがそれに忍従するためにみほかならない(『リア王』)
  • 行動が雄弁だ。(『コリオラヌスー』)
  • 過失の弁解をすると、その過失を目立たせる。(『ジョン王』)
  • 話や歴史で聞いたところでも、真実の恋というものは、けっして好都合にいったためしはないらしい (『真夏の夜の夢』)

備考 編集

  • 日本千葉県南房総市に、シェイクスピアの生家が忠実に再現されている公園がある(シェイクスピア・カントリー・パーク
  • ロンドン橋の近くに、グローブ座が再建されている。[1]
  • 2005年4月21日、イギリス国立肖像画美術館は、多くの本の表紙を飾るシェークスピアの肖像画『フラワー・シェークスピア』の描かれた時期が生存中の作ではなく、その死後約200年後の1814年~1840年頃であると確認したと発表した。1814年頃以降に使用され始めた顔料が含まれていたためで、それは修復に使われたものではないという。美術館では、この年代は作品への関心が再燃した時期で、貴重な歴史的資料であることは変わりはないとしている。
  • 2009年3月9日、生前の肖像画と考えられるものが発見された。
  • 2002年BBCが行った「偉大な英国人」投票で第5位となった。
  • 1970年から1993年にかけて用いられた20UKポンド紙幣に肖像が描かれている。

脚注 編集

  1. 日本語では、「人殺し(1564)の色々(1616)な死に様(4・23)」と覚えられる。
  2. A Shakespeare Genealogy
  3. 3.0 3.1 3.2 3.3 Stephen Greenblatt, "Will in the World" Quebecor World, Fairfield; United States, 2004, pp. 25 - 28
  4. Honan, Park. Shakespeare: A Life. Oxford: Oxford University Press, 1999, p. 43.
  5. E. A. J. Honigmann, "Shakespeare: The Lost Years" Manchester University Press; 2nd edition, 1999, p. 1.
  6. 6.0 6.1 6.2 "The Lost Years", Shakespeare Timeline.
  7. David Aaron Murray, "In Search of Shakespeare", Crisis Magazine
  8. Michael Wood, "In Search of Shakespeare" BBC Books, 2003, ISBN 0-563-52141-4 p.80
  9. William Allan Neilson and Ashley Horace Thorndike, "The Facts About Shakespeare", The Macmillan Company, 1913.
  10. Stephen Greenblatt, "Will in the World", Quebecor World, Fairfield, United States, 2004.
  11. 1598年刊の『恋の骨折り損』において、初めて著者名が明記された。それ以前の作品は著者名が記されていなかったか、もしくは1623年ファースト・フォリオに収録されるまで未刊のままだった。
  12. e-notes.com on Shakespeare's Globe Theatre, Shakespeare at e-notes.
  13. Article on Shakespeare's Globe Theater Zee News on Shakespeare, accessed Jan. 23, 2007.
  14. Jonnie Patricia Mobley, William Shakespeare, "Manual for Hamlet: Access to Shakespeare", Lorenz Educational Publishers, 1996, p. 5.
  15. Graham Holderness, "Cultural Shakespeare: Essays in the Shakespeare Myth" University of Hertfordshire Press, 2001, pp. 152-54.
  16. Leon Harold Craig, Of Philosophers and Kings: Political Philosophy in Shakespeare's "Macbeth" and "King Lear" University of Toronto Press, 2003, p. 3.
  17. G. K. Hunter, "English Drama 1586-1642: The Age of Shakespeare". Oxford: Clarendon Press, 1997, 494-496.
  18. Plutarch's Parallel Lives
  19. Richard Dutton, Jean Howard ed., "A Companion to Shakespeare's Works: The Histories", Blackwell Publishing, 2003, p. 147.)
  20. Brian Robert Morris, "Christopher Marlowe". 1968, pp. 65-94. ハロルド・ブロークスのエッセイにおいて、マーロウの『エドワード二世』がシェイクスピアの『リチャード三世』に影響を与えたと述べている。しかしゲイリー・テイラーは "William Shakespeare: A Textual Companion" p. 116. において、2人の文体が類似しているように見えるのはありふれた決まり文句ばかりであると反論している。
  21. Patrick Murphy, "The Tempest: Critical Essays", Routledge, 2001.
  22. Richard Dutton, "The Birth of the Author," in Cedric Brown and Arthur Marotti, eds, "Texts and Cultural Change in Early Modern England" (London: Macmillan, 1997): p. 161.
  23. Fredson Bowers, "On Editing Shakespeare and the Elizabethan Dramatists". Philadelphia: University of Pennsylvania Press, 1955, p.8-10.
  24. Alfred W. Pollard, "Shakespeare Quartos and Folios". London: Metheun, 1909, xi.
  25. Gary Taylor and Michael Warren, "The Division of the Kingdoms". Oxford: Clarendon Press. 1983.

関連作品 編集

映画 編集

演劇 編集

その他 編集

日本の著名な訳者 編集

関連項目 編集

外部リンク 編集

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