概要[]
- 東京都千代田区二番町(麹町)の日本テレビ本社(当時)内に設けられたオープンスタジオ「マイスタジオ(通称:マイスタ)」を拠点に、国内外からの中継を基に構成。最新のニュースと気象、スポーツ情報から、番組の目玉である日本列島各所の中継、特集を放送した。その一方、芸能情報は番組開始時から番組末期まで歌手やタレントがゲスト出演しない限りほとんど扱うことがなかった。番組の開始を機に、当時新築された日テレ本社南本館1階に「マイスタジオ」を新設した。マイスタジオは本番組以外にも『ルンルンあさ6生情報』(1983年5月放送開始)や『タウン5』、『日本テレビハイライト』などで使用されたほか、スタジオ特性を生かし、外部からの中継番組を処理する「受けサブ(リモートサブ)」としても使用された。日本テレビでの放送時間は7:00 - 8:30(JST)で開始以来不変だった。ただし、一部ネット局では放送時間が異なっていた事例もあった。番組マスコットは「ズームくん」という人工衛星を擬人化したキャラクターで、テロップや番組ノベルティグッズ等に使用され、開始当初から1985年頃までのオープニングアニメーションや「プロ野球いれコミ情報」のオープニングCG、1995年から1998年までのオープニングCGにもその姿を確認することができる。しかし番組終了と共に姿を消し、『ズームイン!!SUPER』ではしばらくの間マスコットは使用されなかった。2001年10月1日より、本番組をリニューアルする形で『ズームイン!!SUPER』がスタートした。
番組の歴史[]
- 前史
- この番組がスタートする直前の頃は、日本テレビの平日朝7 - 8時台の時間帯の視聴率は苦戦を強いられており、キー局では最下位の視聴率であった。制作局長になっていた井原高忠が、平日朝の新番組の企画のために「お前だったらどうする?」とプロデューサーの仁科俊介の元を訪れ、そこで「活動的な朝の空気に合ったものを作りたい」と考えてこの番組が出来上がることになる。仁科としては、朝はどこの家庭も忙しいので「ながら視聴」が出来るようになれば視聴者に支持される番組になると考え、5分以内のコーナーが細かく積み重なっていくという番組構成のイメージが出来上がっていったという。仁科は「『巨泉×前武ゲバゲバ90分!』からイメージが出来ていったので、ズームインの元となったのは実はゲバゲバ90分」とも話している。仁科の他に齋藤太朗、澤田隆治もこの番組の最初から参画していた。斎藤によれば、1978年7月頃から数回社内で朝番組の企画公募があったもののいずれも採用に至らず、9月頃に突然井原から仁科・斎藤の2名にお呼びがかかり「朝番組をやれ」と言われたため、澤田を含めた3名で企画を考えたという。当初は実際の制作は他のスタッフがやると思っていたが、企画が採用になった直後に井原から「お前たちが考えた企画の意味は、お前たちにしかわからないんだから、とりあえず3年我慢しろ」と言われ、しぶしぶ制作もやることになった。また企画段階では1時間番組のつもりだったが「どうせやるならまだ誰もやったことのないものを」ということで、いつのまにか90分番組になっていたという。斎藤は番組が90分になることが確定した段階で、番組を30分ごとに3つのゾーンに分け、最初の30分は出勤前のサラリーマン向けにとにかくテンポを早く、次の30分は中学生・高校生向けに少しテンポを落とし、ラスト30分は主婦向けに大きくテンポを落とすというスタイルにすることを決めた。また前述の「短いコーナーを細かく積み重ねる」スタイルについては、澤田が持ってきたNHKの『国民生活時間調査』の影響も大きかったとしている。番組の企画段階での仮タイトルは『今日、あなたは』。その後視聴者に公募をかけ『ズームイン!!全国的に朝!』と変更された。このことを当時日本テレビ社長の小林與三次に伺いを立てたところ「人の真似は良くない」とされた決裁により「全国的に」の部分だけが取れて『ズームイン!!朝!』(後身『ズームイン!!SUPER』も含め、一部の記事を除き以下『ズームイン!!』と記す)に落ち着いた。1977年にスタートした45分のニュース番組『NNNおはよう!ニュースワイド』はそれまでの『NNN朝のニュース』で伝えられた全国ニュースに加え、特集や地方の話題などを加えて放送するという、当番組の原型となるような内容で放送されていた。その後、『おはよう!こどもショー』との枠統合、ならびにネット局との調整を経て当番組がスタートする。後述通り、当番組には報道部が関与しないため、報道部制作のニュース枠として『NNN朝のニュース』を放送再開した。
- 徳光時代
- 1979年3月5日放送開始。初代総合司会は徳光和夫。番組冒頭、徳光は南本館の玄関前に立って、「皆さんおはようございます。徳光和夫、37歳、顔も背丈も標準よりちょっと下回っているようでございますが、そんな私が司会を致します『ズームイン!!朝!』が今からスタートいたします。」と視聴者に挨拶。さらに決め台詞として「1億1865万人の健康に···ズームイン!!」。その後はマイスタジオに入ってスタジオの紹介をした。初日最初のニュースは前日に起きた日本中央競馬会騎手福永洋一の落馬事故であった。3月初頭という改編期前の中途半端な時期に放送を開始したのは「4月開始だと改編期で広報が多忙なので、PRに力を入れてくれない。3月開始なら広報も暇だから、全体がPRに協力してくれる」というディレクター(初代総合演出)の齋藤太朗の思惑がある。なお、同年4月、日本テレビは平日午前から午後まで生放送情報番組強化による改編を行っているが、同じ日に大阪の読売テレビのワイドショー『2時のワイドショー』が立ち上がり、同局もネットを開始している。
- ちなみにこの年11月29日の朝の生放送中、福岡放送担当レポーターの安田栗之助が移動たこ焼き屋のマイクロバスのドアノブを触った瞬間、(漏電していた事により)感電して失神するハプニングが発生するも、直後に置き上がりレポートを続行する一幕があった。
- 開始当初からの企画としては、全国ニュースでは取り上げにくいローカル色の強いニュースを各局のアナウンサーが直接伝える「NSヘッドライン」、各局が地元球団を応援しながら伝える「プロ野球イレコミ情報」、街角からの中継で通りかかった一般の人と英会話を行う「ウィッキーさんのワンポイント英会話」、「朝の詩(ポエム)」などがあり、これらは長寿企画となった。
- 『ズームイン』開始前の徳光はバラエティやスポーツ中継を通じて中堅アナウンサーとして視聴者から一定の支持を得ていたものの、奔放かつ特殊な勤務態度と報道に不向きなのが災いし社内の評価は芳しいものではなかった。徳光の起用を決めた齋藤太朗によると、「プロレスやバラエティで活躍している奴を真ん中に置いて朝の(情報)番組で使って、何を考えているんだ」と上層部から猛反対されたという。しかし斎藤は徳光の才能を高く買っており、「『ズームイン』の総合司会には渡された原稿を読むだけでなく、自分の言葉、自分の感性で喋ってもらいたい。そう考えたら(当時の日本テレビアナウンス部の中で適任なのは)徳光しかいないじゃないか」と押し切った。徳光は「もしこの番組が一年以内にコケたら、自分のアナウンサー生命自体が終わる」として相当悩んだものの、当時日テレでもエース格とされた仁科・齋藤の2人に口説かれ、最終的に司会の話を承諾。結果徳光は番組の成功と共に朝の顔としてお茶の間に定着。アナウンサーとしても徐々に再評価され、『ズームイン』以外の番組にも多数起用されるなど、活躍の場を広げていくことになる。
- 前番組である『おはよう!-』からジャーナリストの秋元秀雄がコメンテーターとして続投。ニュースコーナーでは秋元が中心になって仕切っていた。
- 1980年に第17回ギャラクシー賞・選奨を受賞。
- 1980年10月21日、長嶋茂雄が巨人軍監督を「解任」される。長嶋ファンの徳光はこの解任劇に激怒し翌日の10月22日、関係者への怒りを露わにしながら番組を開始した。巨人球団や川上哲治を容赦なく批判し、読売新聞・報知新聞(スポーツ報知)の購読をやめると表明し、怒りの番組進行の締めには「ジャイアンツは、不滅から破滅への道を辿る」と発言した。この一連の抗議は放送開始から26分に亘って行われた。
- 1980年12月31日、日本テレビが制作担当であったこの年の『ゆく年くる年』は、本番組のスタッフが実働部隊となり、本番組のシステムで『ゆく年くる年』を制作・放送した。これには本番組並びにキャスターとしての徳光を全国的に売り出す狙いがあったとされ、そのために渡辺謙太郎(当時TBSアナウンサー)、露木茂(当時フジテレビアナウンサー)、溝口泰男(当時テレビ朝日専属キャスター)、金子勝彦(当時東京12チャンネルアナウンサー)といった各局の看板キャスターを集め、中心に徳光を置くといった演出も行われた。この年は当番組と同様にマイスタからの生放送となり、各地からの中継リポートも当番組の各局キャスターが担当。中継を呼び出すときの音も当番組の効果音が使われた。
- ネット局関連
- 開始当時のネット局は日本テレビ、札幌テレビ、青森放送、テレビ岩手、ミヤギテレビ、福島中央テレビ、山梨放送、福井放送、中京テレビ、よみうりテレビ、日本海テレビ(鳥取・島根)、広島テレビ、山口放送、西日本放送(香川)、高知放送、福岡放送の16局ネット。このうち、福井放送では1984年3月まで『ポーラテレビ小説』を放送していたため、8時10分飛び降りとなっていた。秋田放送は本番組スタートと同じ日に本番組ではなくTBSの「おはよう700」のネットを開始。南海放送はすでにネットのおはよう700を引き続きネット。1979年4月2日から、北日本放送でのネットが開始された。開始当初は福井放送と同様『ポーラテレビ小説』を放送していたため、8時10分飛び降りとなっていた他、ローカル番組『ズームイン!!朝!・おはようKNBです』に内包する形をとり、番組後半(7:50すぎ)はローカル編成を組んでいだ。このため番組欄では両番組名が併記となったほか、ローカル部分がのちにステレオ放送化(本番組のパートはモノステレオ放送)されたため、新聞等の番組欄のタイトルにはステレオ放送のマークがついた。この体制は1992年3月頃まで続いた。8月6日も同じ編成であったことから広島平和祈念式典はネットされなかった。また、西日本放送の岡山・香川相互乗り入れにより岡山県での放送を開始(17局ネット)。同年7月2日(実質は6月25日のサービス放送から)、前日に開局した静岡第一テレビにて静岡県での放送を開始。それまで日本テレビとテレビ朝日とのクロスネット局であった静岡県民放送(静岡けんみんテレビ)は前番組『NNNおはよう!ニュースワイド』はネットしていたものの、終了後はテレビ朝日系列の『オリンピックニュース』とアニメの再放送枠に充てていた(18局ネット)。同年10月1日、当時日本テレビ(NNSは非加盟) ・フジテレビのクロスネット局であったテレビ長崎、当時日本テレビ・フジテレビ・テレビ朝日とのトリプルクロスネット局であったテレビ大分がネットを開始した。ただし、後者は開始当初はフジテレビの『ひらけ!ポンキッキ』も放送していたため、1980年3月31日までは8時飛び降りとなっていた(20局ネット)。1980年10月1日、この日に開局したテレビ信州にて長野県での放送を開始。それ以前は長野県に日本テレビ系列局が無かった(21局ネット)。1981年4月1日(実質は3月25日のサービス放送から)、この日に開局したテレビ新潟にて新潟県での放送を開始。開局当日は徳光が新潟に赴き、生放送を行った。同年4月6日、上記の『ゆく年くる年』の効果により、それまでフジテレビ系列の番組をネットしていた鹿児島テレビにて鹿児島県での放送を開始(23局ネット)。1982年4月1日(実質は3月29日のサービス放送から)、この日に開局した熊本県民テレビにて熊本県での放送を開始。前年の新潟の時と同様に、徳光は熊本に赴き、生放送を行った(24局ネット)。1983年4月1日、この日より山形放送にて山形県での放送を開始。ただし1987年9月までANN系列朝枠ニュース番組かつ『YBC社説放送・けさの主張』、1984年3月30日まで『ポーラテレビ小説』を放送していたため7時30分から8時10分(1984年4月2日からは8時30分)までの放送となっていた(25局ネット)。
- 詳細は「YBC社説放送#概要」および「YBCジパングあさ6#朝6時!YBCニュース」を参照
- 福留時代
- 1988年3月、徳光は同年4月から開始される夕方の報道番組『NNNニュースプラス1』のメインキャスターに就任することになり、10年目に突入した同年3月7日が最後の担当となった。この日から後任に福留功男が起用され、この日の放送はバトンタッチを兼ねて二人で進行した。なお、福留は当時『全国高等学校クイズ選手権』(1983年 - )・『アメリカ横断ウルトラクイズ』(1977年 - 1990年)の総合司会を務めており、『高校生クイズ』ロケ期間(7月下旬から8月上旬にかけて)は収録先から福留が中継で出演して番組が進行され、『ウルトラクイズ』ロケ期間(8月下旬、9月から10月上旬までの間の1ヶ月間程)は主に自局および系列基幹局の代理キャスターが担当していた。
- 徳光から『ズームイン』の総合司会を引き継いだことについて福留は後年、「当時の高木盛久社長が日テレ系列局の役員会で『徳光さんの後任総合司会は誰なんですか』と系列局の社長に突っ込まれて、高木社長が日テレの局アナの中で私と徳光さんしか分からなかったのでやむなく私が抜擢された」と語っている。なお、『ズームイン』総合司会就任に当たり福留は『ウルトラクイズ』『高校生クイズ』はどうするのかを上層部に問いただしたが、双方とも続投と聞いてあ然となった。
- 当初は福留ではなく当時読売テレビアナウンサーで、関西地区のキャスターも担当した辛坊治郎が2代目総合司会の最有力候補に挙がっていた。これは、徳光が1985年の夏季休暇取得時の代理総合司会を辛坊が担当する1985年8月13日の前日に発生した日本航空123便墜落事故の続報を伝える『NNN報道特別番組』に徳光が休暇を切り上げて戻らず、辛坊がキャスターを担当したことなどがきっかけでプロデューサー、ディレクター、徳光の総意で辛坊を後任にしたいと申し出をしていたことによる。しかし、高木と当時の読売テレビ社長の青山行雄はかなりの不仲であり、「なんで読売テレビのアナウンサーにやらせんだ、うち(の日テレ)には福留がいるだろ!」と高木が一喝。辛坊後任案は却下されて福留になり、プロデューサー、ディレクター、徳光は無言状態になったと後年に徳光は述べている。辛坊も「いや〜、正直(自分では)ないな」と後年に現場サイドのプランのまま『ズームイン!』に起用されていたら、プレッシャーで潰れていたと開陳している。
- 福留は「最初の1年間は味噌汁の味は変えない[注 16]が、1年経ったらその後は自分の色でやる」として、実際に1年後にはスタッフを総入れ替えして報道・情報番組色を強めたという。最初の1年間は、福留が中心となって、視聴者の朝の生活習慣を調査した。この調査によると、トイレ・歯磨きなどほとんどの行動が3分以内で完結していることが判明し、1回の中継時間を可能な限り3分以内とするリニューアルを実施した。同時に、それまで持ち回り制だった中継スケジュールを廃止。毎月全国の系列局のディレクターを集めて企画会議を行い、それを基に中継を実施した。また「情報トレイン」に至っては会議であらかじめテーマを決め、各局が企画したテーマを持ち帰って取材を進め、中継を放送した。
- 1990年7月には8時台の「NSヘッドライン(2回目のニュースコーナー)」を「情報トレイン」に変更。さらには「31分31秒」を「朝生リポート」に変更し、31分31秒に代わる企画「ズームインズーム」を登場させ、「ワンポイント英会話」の開始時間を7時20分から7時45分にする、「プロ野球いれコミ情報」の最後に時間切れの爆弾とGAME OVERの文字を表示させて「朝の詩」へ強制的に移行するなどの大幅なリニューアルを行った。また情報番組としてスピーディーな進行を志向した福留の意向により、オープニングだけではあるものの、徳光時代以来長らく続いてきたマイスタ前の一般開放を取りやめた。
- 1991年3月に福留は日本テレビを退社しフリーアナウンサーに転身したが、本番組の総合司会は続投した。福留はこの半年後、TBSの情報番組『ブロードキャスター』のメインキャスターに就任し、以降はTBS側の方針により、『ブロードキャスター』が休止される場合同時に本番組の放送週を休む形をとっていた。『ウルトラクイズ』『高校生クイズ』の総合司会はこの年から福澤朗に交代したため、前年までのように『高校生クイズ』収録のため福留が地方から出演したり、『ウルトラクイズ』収録のため福留が番組を1ヶ月離れたりするという事はなくなった。
- 1991年8月21日 - 23日には、福留が海外で体調が悪化した娘の看病のため滞在先の国に渡航した関係で、急遽初代総合司会の徳光が3日限りの復帰を果たし、代理総合司会を務めた。この3日間に限り、当時既に廃止されていたオープニングでのマイスタ一般開放が実施され、見物客と共に『ズームイン‼︎』を行うかつての光景が復活した。
- 1992年3月30日、直前の時間帯にマイスタジオを使った情報番組『ジパングあさ6』がスタート(一部地域を除く)。本番組との合同PRスポットも制作された。
- 1993年3月5日、放送開始から15周年を迎える。この日は福留の代打出演以来2年ぶりに徳光も出演し、全編に渡り福留とのダブル総合司会で放送した。オープニングでは第1回放送での上記の徳光の第一声のVTRを放送した後、同じ場所に立つ徳光が挨拶を行った。4月9日には放送開始15周年記念と日本テレビ開局40周年記念を兼ねた特別番組『ズームイン!!夜!』をゴールデンタイムの夜7時から4時間にわたって放送。こちらも徳光と福留のダブル総合司会により朝と同じスタイルの番組を夜に展開する企画で、好評につき同年秋にも2回目(この時は夜7時からの2時間30分)の放送がなされた。
- 1993年6月9日、『NNN皇太子さま・雅子さんご成婚スペシャル 麗しのプリンセス誕生! 14時間テレビ』の第一部として、ジパングあさ6と合同特番を放送。
- 1993年から1994年に掛けて、長寿企画である「朝の詩」や「ワンポイント英会話」のコーナーを終了させた。ニュース量・地方中継の量と質の向上などの第2のリニューアルを進め、スピーディーな番組進行の色合いが強まった。「朝の詩」は花王の一社提供コーナーであり、花王に了承を得てから終了となった。以後、花王は提供クレジットから降りてPT(パーティシペーション)扱いとしてCMを流した。
- 重大な事件・事故が起きた際、その翌朝にはマイスタでの司会を別の者(堀敏彦など)に任せた上で、メインキャスターである福留自ら現場から生放送・リポートを行う手法を多用した。1993年7月12日の北海道南西沖地震発生の際には、被災した奥尻島を翌朝の番組でヘリコプターからリポートした。最も有名なのは1995年1月17日の阪神・淡路大震災発生から2日後の同月19日、神戸から番組を生放送し、現地キャスターと被災地や被災者のリポートを行っている。その中継の中では読売テレビの報道フロアからの中継を打ち切る形で、福留が目撃した被災者が火災のあった家屋のがれきの中から救出されようとしている様子もそのまま生中継されていた。
- 1996年4月6日、土曜日の朝に姉妹番組として『ズームイン!!サタデー』を開始した。初代総合司会は後に本番組の3代目総合司会となる福澤朗。
- 1998年4月1日、前半ネット部分のスポンサー体制が、それまでの隔日提供から曜日毎の提供に変更された。また、それ以前には提供クレジットの方式が度々変更されており、番組開始当初からはオープニングの天気リレー→全国の天気の後に前提供をテロップとコメントで紹介し、後提供もテロップとコメントで紹介していたが、94年の『朝の詩』終了後から95年3月までは前提供をテロップとコメントで紹介することは継続も後提供はテロップで済ませる形になり、95年4月以降はネットスポンサー枠をNSヘッドライン前から中盤に、前提供もCM明け後にテロップで済ませる形にそれぞれ変更した)。
- ネット局関連
- 1990年4月2日(実質的にはサービス放送開始の3月26日から)、前日に開局したテレビ金沢にて石川県での放送を開始。それ以前は石川県に日本テレビ系列局が無かったため、北日本放送(金沢市、月曜の「金沢情報」・能登地方)と福井放送(小松市・加賀市など)が取材を行っていた(26局ネット)。1991年4月1日、長崎県での放送がこの日に開局した長崎国際テレビに変更。テレビ長崎での放送はその半年前に打ち切りになっている(1990年10月から1991年3月までは25局ネット、同年4月より再度26局ネット)。1992年10月1日、愛媛県での伊予テレビ(現:あいテレビ)開局を期にTBS系列の番組ネットの見直しが行われ、これまでTBSの平日朝7時の番組(最末期の番組は『ビッグモーニング』)を放送していた南海放送(愛媛)と秋田放送が番組ネットを開始。最大の28局ネットになる。1994年4月1日、鹿児島県での放送がこの日に開局した鹿児島読売テレビに変更。なお、それまで鹿児島県でのネット局であった鹿児島テレビは同日フジテレビが開始した『めざましテレビ』を本番組の後継番組扱いでネット開始した。開局当日は福留とNNNの九州地区基幹局である、福岡放送の中継キャスターの古賀ゆきひとが鹿児島に出向いて番組が放送された。(28局ネットは維持)1996年7月6日と1997年7月5日、静岡第一テレビで福留がメインパーソナリティを担当した『第一テレビの日』の一環で『ズームイン!!静岡!』(8時 - 9時30分)をウェークアップ!(読売テレビ制作)から差し替えて放送(1997年は『ズームイン!!サタデー』を静岡第一テレビの独自制作に差し替えている。)。
- 福澤時代
- 1998年8月31日の放送を最後に福留が勇退。代わって翌9月1日放送から『ズムサタ』の初代総合司会を務めていた福澤朗が3代目総合司会として登板。同日の番組冒頭、福澤は「今日からですね、福留さんに替わりまして、新しい朝、とれたての朝をお届けしてまいります。アナウンサーの福澤朗でございます。学校においては今日から新学期、2学期ですね。私もアナウンサー人生において新しい節目を迎えました。精進させていただきます」と登板の挨拶をした。ちなみに、福澤はそれ以前にも『アメリカ横断ウルトラクイズ』(1991年 - 1992年)と『全国高等学校クイズ選手権』(1991年 - 2000年)において、福留に代わって総合司会を担当していた。福留は、1ヶ月後の10月1日から8年ぶりに『アメリカ横断ウルトラクイズ』(“今世紀最後”と題した復活版)のロケに出かけている。福留は同年4月に「『ズームイン!!朝!』をそろそろ若い人に譲りたい」として日本テレビの氏家齊一郎社長(当時)に勇退を申し出ており、それ以降「後釜は誰か」という声は上がっていたが結局『ズムサタ』初代総合司会の福澤が横滑りすることになった。
- 2000年1月5日、「ズバリ!!橋本五郎」放送中に当時内閣総理大臣の小渕恵三から突然電話がかかり、スタジオと数分間談話した。この日の前後にも複数の番組に電話をかけ、話題になった。
- 2000年12月16日には『スーパースペシャル2000』で本番組のスペシャル 「衝撃・時代の目撃者実録ズームイン!!朝!20世紀これが日本だ」が放送され、歴代の総合司会である徳光・福留の両名も福澤とともにマイスタから出演した。
- 2001年9月28日、最終回を迎えた。同年10月以降『ズームイン!!SUPER』にリニューアルされる。福澤は『SUPER』でも新たに加わった大桃美代子、11年半ぶりに復帰した辛坊治郎と共に初代メインキャスターの1人として続投。
- 終了後
- 毎年8月下旬に放送される『24時間テレビ 「愛は地球を救う」』では日曜の5・6時台をこの番組をベースとしたお天気リレーなどを行っていたが、第34回(2011年)の放送で徳光がマラソンにチャレンジした際に、7時をきっかけに休憩所に応援に来たアントン・ウィッキーと「ズームイン!!」ポーズをとり、中京テレビでリポートを担当したきくち教児、読売テレビでリポートを担当した森たけし・辛坊治郎と回線をつないだ。その後、『朝!』や『SUPER』の復刻企画が増え、2016年には早朝企画の放送箇所を汐留日本テレビ・マイスタジオに移し、実質『ズームイン!!』の復刻版に近い形で行ったのち、2017年 - 2019年は徳光・福留・福澤に後番組『SUPER』の司会羽鳥慎一と後々番組『ZIP!』の司会である桝太一を加え、『復活ズームイン!!』として『ズームイン!!朝!』の流れで放送された。朝番組をベースにしながら早朝企画を展開する演出は2020年・2021年は『ZIP!』に引き継がれた。2022年は早朝企画が一新して「日テレキャスター大集合!24時間テレビ的ニュースショー」にリニューアルした。2023年は6時55分から『復活ズームイン』のタイトルで放送された7時のタイミングでズームインポーズを披露し当時のオープニング映像を流して天気リレーに入った。
視聴率[]
- 関東地区における初回視聴率は2.4%(最低視聴率は開始年のゴールデンウィーク期間中に記録した1.5%)。
- 開始当初はNHK総合テレビの報道番組(当初は『NHKニュース』と『スタジオ102』、後に『NHKニュースワイド』)と『連続テレビ小説』が強く1%台も記録し苦戦続きだったが、それは当時ほとんどの県で地元民放テレビ局が2〜3局しかなかったために、他系列の番組を放送していたためである。ところが1979年7月に静岡県で静岡第一テレビが開局したのを機に、基幹地域以外にも民放地方局第3局・第4局が開局。番組確保の必要性から日本テレビ系(即ち本番組)を選択する局が相次ぎネット局が飛躍的に増加したことがまずあり、その上で「幅広い世代が一緒に見ることができる内容」、「時計代わりに使える番組構成」、当時としては画期的な「言葉で時間を告知すること」などの要因により徐々に向上し、1年後には8%を記録する日も現れた。
- 1987年4月には当時、視聴率で民放1位だったTBS『朝のホットライン』を追い抜いた。
- 1992年4月には1日だけではあるが、NHK総合テレビ『NHKモーニングワイド』の視聴率を民放史上初めて上回り、1994年4月には平均視聴率でもNHK総合テレビ『NHKニュースおはよう日本』(上記『モーニングワイド』の後継番組)を上回った。さらに2年後の1996年6月には平均視聴率20%を記録し、放送開始17年目にして完全に日本の朝番組の頂点に立った。同年7月には番組最高視聴率である22.8%を記録した。
- 1990年代中盤の勢いは福留時代末期から、『おはよう日本』の復調やフジテレビ『めざましテレビ』の躍進により、視聴率が頭打ちとなった。そのため、司会者の若返り・天気リレーの短縮・芸能情報の導入などを入れたものの、2000年までは16%前後と他番組とは圧倒的な差をつけていた(『めざましテレビ』は関東地区ではまだ10%に達していなかった)。3代目の司会者である福澤はこの点を振り返り「一番大変だった」とも語っている。
- 2001年になると『おはよう日本』の視聴率上昇の影響を受けて、月平均視聴率が13 - 15%前後となる。同年6月に『進め!電波少年』のプロデューサーであった土屋敏男が編成部長に就任した際、最初に着手したのが早朝時間帯の大改革の断行であり、本番組・『ジパングあさ6』・『あさ天5』の3番組を統合する形で、『ズームイン!!SUPER』が始まることとなる。最終回の視聴率は13%であった。
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